寂しさの力

11月に一番見られたツイートはこれだった。

中森明夫の『寂しさの力』を読んだ。東日本大震災時に、寂しい人ほど、より生きている気がすると思い、田舎にいる母の寂しさを肯定するために書かれた本。いいテーマだ。私も寂しさを抱きしめたくなった。各章で、作者、偉人、芸能人、哲学者の寂しさについて書いている。人は寂しさに惹きつけられる。


私は父が東京に転勤したので東京の大学も受験した。東京で住んだのは小学生のときに住んでいたのと同じ社宅だ。そうしたら祖母が悲しんだ。私が東京に行く飛行機に乗る日には、悲しくて私に電話ができないと祖母は母に言ったらしい。母は、そのまま東京で働いて東京で結婚するのだと私に言った。分からないでしょ、そうなの?と思ったが、今のところ私は東京にいる。祖母は学会で私が熊本に来るのさえ喜ぶ。福岡には寄らないが近くにいるのが嬉しいらしい。ちょっと分かる。
大学に入ったら授業をたくさん受けた。閉館時間まで友達と図書館にいた。留学生の友達も作った。その友達の国にも行った。東京の大学に行かせてもらったという思いがあった。元を取ろうとした。大学を卒業し、その思いは今、国からお金をもらって大学院で勉強してから社会に出させてもらったという思いに引き継がれているが、祖母は私が福岡に戻るのをずっと諦めないので、私は「祖母が寂しい」以上の何かを生み出せているかという思いは根底にまだあるかもしれない。


寂しさの力と聞いて浮かんだのは上記のことだった。直球の寂しさの力というより、母の寂しさを思って作者がこの本を書いたような、誰かの寂しさを経た寂しさの力の話で、同じく11月に読んだ『世界は贈与でできている』の方に近い。


自分自身の寂しさの力についても思い当たるものがある。私がしたいことは、過去の私がして欲しかったことであるということだ。教育実習のときは、実習生と積極的に話さないような子と話したかった。大学院での経験を話すときは、こういう人もいるよと言いたかった。アメリカで思ったこともたくさんある。寂しかったとは違うのだが、声が少ないと誰かに任せておけないから、自分で言う。
寂しいからこそできること、できるようになることを背後に置きながら自分にできることを増やしていきたい。