楽しむためではなく生きるために歩いていた。

1月に一番見られたツイートはこれだった。

 

久住昌之谷口ジローの『散歩もの』を読んだ。『孤独のグルメ』のコンビ。原作は実際に散歩して作られている。原作裏話が面白かった。絵が上手いんだって気が付いた。

 

私のスマホのメモ帳には「運動とは運を動かすこと」と書かれている。テレビで誰かが言っていてメモった。コロナが始まったとき私は、アメリカで長く研究をするために一旦日本に戻ったんだけど研究以外のことをしてみてもいい気がする、と思っていたらコロナで戻ろうにも戻れないとなっていた。それで歩いていた。歩けば誰もその日の私を否定できなかった。そのメンタルを手に入れるために毎日歩いていた。距離はどんどん伸びて三万歩でも歩けるようになった。私にとってそれは散歩というよりストイックに歩くことだった。今は歩かなくても平気だけど、それくらいの距離なら歩こうとなる距離は変わっていなくて移動が便利になった。

 

歩く習慣は人と散歩をする機会もくれた。一昨年父方の祖母が亡くなったとき、私は3週間実家にいて、毎日のように夜、母と歩いていた。昨日こっちを歩いたから今日はこっちという感じで歩き、長崎みたいに細い道のエリアがあることも発見した。今でもあのエリアを見に行こうとなる。知り合いと歩くこともあった。相手がどれくらい歩く人なのか分からないとずんずん行きづらいが幸い歩く人だったので何回か歩いた。どうでもいい話しかしなかった。話すならご飯を食べながらの方がいいと思う。でも散歩をすると何かが体から抜ける気がする。行った先のことより移動中のことを覚えているのも同じことが原因なんだろうか。