自分の人生にちゃんと関わらないと、自分の人生なのにおざなりになってしまう

9月に一番見られたツイートはこれだった。

 

め組の大吾 救国のオレンジ』の1,2巻を読んだ。消防官がこんなに頑張ってくれているなんて。

 

め組の大吾 救国のオレンジ』は『め組の大吾』の続編で、アニメも始まったみたいだ。

 

9月は2人から刺激を受けた。

1人目は72歳の社長。会社の行き帰りには人生の満足度を上げることを考えることにしているらしい。人生の満足度は上げたい。ただそれを毎日考えるって、それに向き合うってすごい。

2人目は研究所の人。2週間のハッカソンイベントに参加したのだけど、私ともう一人の会社所属の人は、同じチームのその人と大学生の意見をまとめる方に回ってしまった。最終的にその人は、このハッカソンを一番楽しんだのは私だと言った。研究を続ける人ってこういう人だよと思った。ハッカソンに参加する際には、毎日そのための時間を取り、自分の意見を出せるだけ出した後でまとめる側に回った方が良いと学んだ。そうしないとすぐ終わってしまう。優勝チームはハッカソンの期間中にリアルでも会っておりZoomでの打ち合わせ回数も多かった。2週間後に集まったときの仲もよかった。私は他のチームに対してではなく自分に対して悔しかった。やれることはたくさんあった。

2人と会ったことを合わせて、私は自分の人生にどれくらい関わっているだろうかと思った。自分の人生でも、流されていたら自分が関わらずに終わってしまう。すぐ終わってしまう。働いてみたら、そういう感じでとは思ってなかったが、それなりに楽しかった。でもそれだと振り返ったときに何もない。自分の人生に関わることに毎日向き合うのは大変だ。そうするとレバレッジの効き方が変わってくるとしても大変。でも自分の人生の舵は自分で取らないといけない。私はそれを当たり前だと思っていたけど、舵取りを人に任せたつもりはなくても、自分が自分の人生に関与していないということは起こってしまう。

そういうことが起こりやすい環境、起こらない環境もあると思う。大学にいたときは自分でどうにかするしかなかった。今は所属している人になってしまった。自分という個人の人生にちゃんと責任を持つとかそういうことが分かるようになってしまった。今は自分の動くの待ちな感じがする。

冒険家の植村直己は「経験は技術」と言っている。本当は立ち止まらずに経験を積み重ねていきたい。

一心不乱に進むのはいいなと思うけど、私は日常を見るのが大好き

8月に一番見られたツイートはこれだった。

 

『フツーに方丈記』を読んだ。私は大原扁理の新作を楽しみにしている。コロナ渦は図書館が閉まり、買うなら図書館にない本ということでBL漫画を読んでいたそうだ。実家の話もあった。古市憲寿の記事を読んだときに思ったのだが、なぜそう考えるようになったかを理解するのに、育った家の話は大事だ。

 

続けてこうも呟いている。

 

(続き、メモ)将来の安心のために今この瞬間を腐らせ本人不在の人生にならないように、残された時間は長くて半年とする。方丈記の終わりは「ここまで、誰のためでもない自分だけの楽しみを書き綴ってきたが、残された貴重な時間を無為に過ごしてしまったように思われてならない。」

 

大原扁理はこれまで
『20代で隠居 週休5日の快適生活』
『年収90万円でハッピーライフ』
『いま、台湾で隠居してます』
といった本を出していて、私が新作をチェックしている作家の一人だ。

 

私はできるだけたくさんのことをしたいと思って生きている。この先になぜはない。なぜそう思うのかと言われても、答えはそう思うからになる。積み重ねて同じものが違うように見えるようにならないと嫌だが、どんどん上にというよりどんどん広くと思っている。1万個の経験をしようとは思っていない。7千でも、8千でも、できるだけ多く。私は公園にも行きたいし、寝たい。一心不乱は幸せだと思うけど、日々をすごく見ていたい。1万個でも何でも目標があった方が早く進めると思うけど、早く進みたいにも関わらず、スーパーを巡れないと嫌だ。先日、アメリカや日本の水道を救っているベンチャー企業、フラクタの本を読んだ。起業して社会課題に挑戦している人を羨ましく思う。私が毎週『カンブリア宮殿』を見ていることに対して妹がいいなと言う。私が、見たらいいじゃんと言っても妹は見るわけではない。それと一緒だ。いいなと思うけどやらない。

私は長く大学にいる。人類の知を増やせると嬉しい。成果が出ないと迷うが道は分かりやすく見えていた。結果が出るということはいいことで結果を出すのみ。道が分かりやすい分苦しいけれど。ところが社会に出ると何を積めているのだろうと思った。行為としては楽だけど、限りある人生に何を詰めたらいいんだ。

博士課程でその後アメリカに戻ろうと思っていたとき、もっと他に楽しいことがある気がすると思っていた。今またそれを思うようになってきた。やるなら今度も全く違うことをしたい。

幸せは難しくない?むしろあがきたい?

7月に一番見られたツイートはこれだった。

 

佐々木典士の『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』を読んだ。すごい。こんまりさんのようにこれはもう思想になっている。後半どんどん伸びる。生きているだけでも充分。うまくいっている夫婦はそうでない夫婦と比べて週5時間は長く話す。

 

26カ国語に翻訳されているのが分かる。素晴らしい。最初はミニマリストの話なのだけど後半からはミニマリストとは生き方だと分かってくる。トマトも集中して切ればそれだけで幸せ、物が少ないともし妻がいて掃除をしていたらずるいと言うだろうという話があった。分かる。階段を下りて下の階のトイレに行くのが楽しいことがある。そんなことがイベントになり得る。なんだ、私これ分かるよ、私大丈夫だよ、幸せを感じていられるよと思った。でもそれでいいのかなとも思う。歩いてスーパーを回って帰って買った食材を食べたら幸せ。本と漫画もあればずっとやっていけそう。でもそれでいいの。

 

青春18きっぷ高崎市山田かまち美術館に行った。200円だった。高崎市は観光客のために観光案内所ではなく駐輪場で自転車を貸してくれるので、群馬八幡駅では少林山達磨寺に、倉賀野駅では観音山古墳、群馬県立博物館、群馬県立近代美術館に自転車で行った。観音山古墳では石室に入ることができる。また高崎駅では高崎市山田かまち美術館だけでなく高崎市中央図書館にも行った。4階までは総合保健センターで5階が図書館なので、検診に行くではなく図書館に行くと思えそうだ。

さて山田かまち美術館に戻って、私は、私尖ってないなと思った。私にも尖っている部分は過去あって、それが今は尖っていないなんて、分かりたくなかった。エレキギターの練習中に17歳で亡くなった画家、詩人のかまちは、強くなりたい、強くなりたい、強くなりたいと書き記している。分かる、私もそう思っていた、でも今そんなに熱くない。自分がそういうことになるなんて思わなかった。変化なんか感じたくなかった。その後怒ることはあって私にも熱はあるかと思ったけど、10代や20代の若さ、エネルギーとは違うと思った。かまちの場合は溢れていた。友達にその話をしたら私は今充電中だと言われた。彼女はまた元に戻るつもりでいる。各年代の熱さはそれぞれ違っていい。ずっと好きなものがある人はいい。ただ不可逆なので眩しいだけだ。

 

私は野菜を切ることで幸せを感じられる。たくさん自分と旅したから、自分の楽しませ方も分かっている。でももっとジタバタしたかったと思った。大学院生が一緒にジタバタしましょうよと言うけど一緒にしたところで中身が違う。一般的な大学院生よりは遠くが見えている。だけどそれでも、ミニマリストでも、私は怒っていたし、もがいていたいし、上手になんて生きていたくないかもしれない。そういうのも大事ではないですかというのが今の私。

山田かまち美術館はとても胸に流れ込んでくるのでおすすめ。

物事がいいように回り出すためには上手くいっていない期間が必要な気がする

6月に一番見られたツイートはこれだった。

 

佐々木典士の『ぼくたちは習慣で、できている。』を読んだ。意志力について説明した1章がすごい。編集者の文章だと思う。自由時間は1日7時間以上あると逆に幸福度が下がる。

 

この本は、『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』の次に出された作品である。そもそも部屋をちゃんと掃除できるのであれば作者はミニマリストにはならなかったが、できないので物を少なくした。作者にはそれがよくて、その結果気付いたことがたくさんあった。そして他のことでも心の状態が悪くなるようなことは最初から回避するようにした。たとえばお酒もやめている。この次作は、そういう風に自分にとって快適な状態を見極めていった結果、身に着いた習慣の話だ。

 

6月には、ほぼ日で、マシンガンズ滝沢秀一さんの連載もあった。父が記事を送ってくれた。滝沢さんは腐っていたときにテレビでサンドウィッチマンを見て、サンドイッチマンが漫才の日本一なら、自分はゴミ清掃員の日本一になろうと思った。それから「問題に追われている」状態から「問題を追う」ようになった。

奇跡のリンゴ木村秋則さんは土が大事だと気付いて自然栽培を成功させたが、母がテレビでそれを見て、そういえば土が大事という光景は前にも目にしたことがあったという場面で、なんでそのときに気が付かなかったんだろうねと言った。

 

佐々木さん、滝沢さん、木村さんのエピソードから思うのは上手くいっていない時期の長さって大事な気がするということだ。私は引っ越しを重ねる中でミニマリストになったが、早く辿り着いてしまうと考えない。大学院生が友達に賢く生きてきたんだろうと言われてそれは最大の皮肉の言葉だったと言っていた。賢く生きられるって長い目で見るとよくない。竹中直人の『役者は下手な方がいい』での「出来ないことの豊かさ」という言葉も思い出される。カンブリア宮殿でも物語には困難な場面が入っている。

 

異世界ひろゆき』の中でひろゆきは「不安になること自体は誰にでもあることですしぃ…思考の深さに繋がるなら良い個性だとも思うんですよね。でも不安のあまり思考停止しちゃうのは良くないなと…」と言っていた。私も自分自身は悩んでいるときの方が面白いなと思う。悩みたくもないのだけど悩んでいないとあまり考えない。ただなんかつまらないなと思ったら守りに入ってしまっているということだから攻めに転じるようにしている。それも実験が面倒っていう期間の長さの先に、いっそ実験を増やしてしまうと上手く回すのに頭を使ってそれを回せると快感でむしろ楽しいと発見した産物かもしれない。できる、できない、考える、考えない。意図的にできることばかりでない気がするけど、やっていたらみえてくるものは何にでもあるのかもしれない。

新しいことを始めるときにまず本を読むのは

5月に一番見られたツイートはこれだった。

 

日経ソフトウエアの『初心者のためのPython活用術』を読んだ。カラーで大判。見やすく開きやすい。

 

最終的には、本に書いてあるコードを手打ちするの面倒臭いし、ネットの人のコードを切り貼りするのだけど、新しいことをする際には本を読む。WordPressのときもGoogle Analyticsのときもそうだった。本を読むのには2つの理由がある。まず、全体像を知りたいということ。これは全体の何割に相当する知識、これは最初の方に出てくること、最後の方に出てくることということを知りたい。紙の本ではそのことが実感を伴って分かる。次に、読んでいるうちに慣らしたいということ。今回でいうとPythonと名の付く本を10冊読んだ。新しいことをするときに一番難しいのは、知らないことの連続に心が折れないようにすること。それらを一気に受け入れるには労力がかかる。Pythonがあって、Anacondaがあって、Visual Studio Codeがあって、Beautiful Soupがあって、それぞれ何と思うけど、本を読めば分かる。こちらにはこう書いてあって、あちらにはこう書いてあって、大体のおすすめはこうで、これにはこう書いてないけどそういう考えもありだということが分かる。山口真由の7回読み勉強法は私にはできないが、同じことに関する説明をいろんな本で読むことはできる。彼女の勉強法と、1回目、1冊目で分かろうとしていないことは同じだ。

 

本を読んでからしますと言うとなぜ本を読むと思われるが、最初に時間をかけると後が速い。『クローディアの秘密』の中で、クローディアが弟に、最初に作戦を立ててから探そうと言うように。私は、使わなくても炊飯器のすべての機能を見ているのと今、同じ状態ですと説明していた。10冊も読めば実行はすぐにできる。私は博士課程での実験を通してシミュレーションができるようになっているので、頭の中でできると後は手を動かすだけだ。

 

自分が止まりやすいところは止まらないように設計しておく。今回はPythonVisual Studio CodeGitHubなんて面倒だから、Google Colaboratoryだけにした。Google楽天はいい。それでまとめたい。

 

博士号を取ってよかったことはできると思われることだ。できませんよと言っても聞いてない。英語と数字とコードならそれだけで私の元にやってくる。私も私でこれまでのネットの人の助けを借りればできることは分かっている。再現性が取れることなら他の人にできることは私にもできる。女の人は他の人のおかげでと言うことが多いらしい。自分ができるできないに関してはどうか知らないが、相手が私に対してできると思ってくれていると助かる。私も調べて答えるだけなんだけどなということでも、それを機会に調べられていい。

好き嫌いの追及

私のブログには、前月に一番見られたツイートをお題に書くシリーズと、ある程度体験したらそのことをまとめるシリーズがある。今回はまとめるシリーズも10回以上書いたことから、まとめるシリーズ自体をまとめたい。これまでにまとめたものには下記がある。

 

・小麦粉でいろんなものを作った話
・自分の地域での活動
ジブリゆかりの地
・スケッター
・オンライン講座
・オンライン工場見学
・銭湯
・研究室生活
Twitter
青春18きっぷ
・ミニモ
・フリマアプリ
・試写会
・外国の映画館で映画を観ること

 

山口真由が『思い通りに伝わるアウトプット術』の準備の章で、インプットの技術として自分を知ることを挙げていた。自分自身の軸とは自分の「好き嫌い」のことで、それが明確になれば関心の所在が掴めてインプットが楽になるという原理だった。ここでまとめたものはどれも回数をこなしているので私の好きなものと言える。分かっている「好き」には下記がある。

 

・同じ枠組みで比べる。
・数をこなして制覇する。

 

なんでこれ好きなんだろうと考えるとこの2つができるようになっていることが多い。例えばお金がかからないことは条件を合わせて同じ枠組みで比べるために必要な要素だし、本は制覇にできるように全体量を知ることができる紙がいい。そもそもなんでこの2つが好きなのかというと人に、転勤してきたからではないかと言われたことがある。ここの小学校の給食はこうなんだ、季節が一周して一通りの行事を知ったということが生きるために必要だったからではないかと。ここはこう、全体はこうを見ていくうちにその作業自体が好きになったのかな。そうすると好きだから知りたいと思うということを利用する前に、好きになるための仕掛けも必要になるのか。

私は旅行って自分の楽しませ方を知ることだと思う。だんだん自分が好きなものが分かってくる。これ好きだなって思うから行ってみるとやっぱり好きで、さすが私、私のことがよく分かっていると思う。そう考えると好きなものは最初からあって見つけるだけという気もする。

ブログを書くことはそのために役に立つかというと取り上げる時点で好きということに自覚があったので役に立ってはいない。ただ1000字がこれくらいという感覚が身に着いた。

 

楠木建も『経営センスの論理』で「好き嫌い」について述べていた。重要な判断ほど最後は好き嫌いで決まると。実験をできる限り速く行うといつも同じくらいの速さでできるが、手際が悪い人は毎回時間のかかり方が違うので上手くいっていないときに上手くいっていないことに気が付きにくい。息を最大限吐いてくださいと言われたら同じくらい吐けるのに、最大の半分である50%吐いてくださいと言われたら数値が安定しないのと同じだ。好きはその最大値みたいなものなのではないか。好き嫌いは位置を測るときに使える旗になるのではないか。「好き嫌い」が大事ということを数値で言えないことが気になっていたけど、解明できたぞ。

外国に行ったら映画館で映画を観るようにしている

日本では試写会ばかり行っているけど、外国では映画館で映画を観ている。旅先で必ずそうしているというのを本で読んでいいなと思って、最初に一人で行った台湾から私もそうしている。1000円以上するときは観ていないが、そうでなければその国の映画を観ている。英語字幕もなければ何と言っているかは分からないが、話は何となく分かる。映画は日本でも観られるから他のものを見に行きなさいと言われることもあるが、映画館にはその国の文化がある。10か国以上行ったのでまとめたい。

 

台湾

台湾の映画が観たいのに出演者名も漢字で書いてあるものだから欧米のものかどうかも分からない。顔から判断しようにも中国のものと見分けられない。それで台湾のを観たいと告げた。それで観たのは日本統治時代の映画。日本人が出てきたので言葉が分かるところもあった。私は台湾のことを知らないんだなと思った。街中では映画のCMをよくやっていた。日本の映画もかかっていた。ポスターを見た。

 

タイ

ニューハーフショーを観たいが外国人料金は嫌だと思っていたら、実は心は女性というお坊さんの映画で、ニューハーフショーに少し触れられた。タイの要素が2つも入っていた。映画が始まる前には国王の映像が流れたので立ち上がった。タイの芸能人は街中にいる人と違って白い。主人公がかっこよかったので何とかしてその人の名前を突き止めたが、ネットから得られる情報は少なかった。

 

インド

1階席と2階席があり、皆、料金が高い方の2階席。私も勧められてそうした。待っている間に同じく立っていた人からポケットから出したゆで卵をもらった。アルミホイルに塩もあった。殻をこぼさないように手に持っていたらそんなものは捨てるのだとその場で地面に捨てさせられた。インド人は距離が近いので観ている間は私の足に足を乗せてきた。それを下ろすという作業をしながら観る。ときどき画面に黒い線が入り、観客は声を上げる。そうすると映画館の人が直す。映画の中の人たちは踊っていた。王子様とお姫様の話だった。街中ではよく撮影をしていた。本当に映画が盛んなのだと思った。

 

フィリピン

フィリピン映画がなくディズニーの『美女と野獣』になった。日本でも観られるが安いと思った。公用語が英語なので公開が早く、英語圏のものが多い。ショッピングモール内の映画館で観たので始まる前にスイーツを食べた。みんな陽気だった。

 

アメリ

84歳の人の家に複数人で住んでいたとき、その家の人に『ブレードランナー』を観に行かないかと言われた。怖いから嫌だと言ったが『ブレードランナー2049』という続編だったと後で分かった。次に言われたのが『リメンバー・ミー』で、このときは一緒に行った。映画のプランがたくさんあるものだと思った。料金が変わる。サブウェイで選択肢が多いのと同じだと思った。ノースウエスタン大学で映画の脚本の先生をしているアメリカ人と、数理物理学のポスドクをしているロシア人と、ドローンで撮った写真をナショナルジオグラフィックのサイトに投稿している同じくポスドクイスラエル人と言った。寝た。大したことないと思ったので後で、日本で観て、歌もいいし面白くない?と思った。もう一回観て面白いよなと思った。映画の後はデザートを食べに行った。このイスラエル人はご飯の後のデザートが必須で、どこでも頼むことになる。表に出してデザートが好きなのは女性だと思っていたなと思った。アンコンシャスバイアス。メキシコ人街で死者の日を体験していたので、映画はその記憶と結び付いた。

 

カンボジア

カンボジア映画を観た。カンボジア映画はたくさんあった。そこら辺で撮影したって感じの映画だった。日本で観たら東南アジアの映画だとしか分からないだろうが、カンボジアにいるとカンボジアの風景だなと分かる。運のない人が裸の男性に服をあげたらその人が交通事故に会い死に運が悪くなくなったという映画だった。コメディは好きだけど、それでいいのかカンボジア人と思った。カンボジアでは米ドルが使えて安さも実感しやすかった。ラオスではタイのドラマをよく見たのでカンボジアでは自分たちで作るということが意外だった。

 

ベトナム

時間の合うベトナム映画がなくマーベルの『ワカンダ・フォーエバー』を観た。主人公は黒人女性。人種、国籍の違い人たちがひとつの映画を作っており、ベトナムで観たことで、より、これが世界の最高峰かと思った。ときどき映るアメリカの家には憧れた。資本主義だなと思った。

 

韓国

見た目でその国の映画かどうかを確認でき、チケットを買うのがスムーズだった。宮廷の話だった。韓国映画ながらこれは日本で観られるかもなと思った。

 

マレーシア

マレー語の映画は子ども向けのアニメしかなかった。マレーシアは多民族国家で、マレー語の他に、英語、タミル語、中国語も使われている。Malaysian Tamil cinemaはタミル語でもマレーシア映画だ。しかし時間が合わなかった。そこでインド映画でもタミル語のものを選んだ。私立の先生に嫌がらせをさせられながらも、お金を取らない学校でいい授業をする先生の話だった。インド映画はレベルが高い。

 

映画が始まる前の広告も注目すべき点だ。映画以外の広告があるので上映時間になってもまだ人は入らない。エンドロールはどの国でも見られないように思う。