こうした方がいいということを徹底的にやり込むすごさ

1月に一番見られたツイートとはこれだった。

 

『パパと親父のウチご飯』の1-3巻を読んだ。シングルファーザー同士が同居。シングルマザー同士でもその状況の漫画を知らない。

 

ご飯ってとても大事だ。新橋に行ったとき、ここのご飯が変われば日本が変わるんじゃないかと思った。安くて上手い。量も多い。提供も早い。でも女の人もここで働いているんだよね。

 

今日のYahoo!ニュースにはこういうものがあった。

 

話題の中で結婚がキーワードになり、リリー・フランキーは他人と一緒に暮らす上で食が大切だと話すと、山口も共感した様子で「むっちゃ食。ほぼ食じゃないですか。夫婦ってほぼ食な気がする」とコメント。

 

千尋もハクのおにぎりを食べて泣く。ご飯って栄養以上のものだ。

 

最近、こうした方がいいということを徹底的にやり込むということについて考えている。佐藤可士和の『佐藤可士和の打ち合わせ』を読んだときに驚いたことがそれだった。特別なことはしていなかった。こうした方がいいということを徹底的にやり込んでいた。カンブリア宮殿でも「こうしてV字回復した」というときのこうしたことというのは案外普通だ。徹底的にというのがすごいのだ。今は参考になることもすべてネットに上がっている。ではなぜ徹底することは難しいのだろう。

 

第一に、こうした方がいいということは人によって違うのだと思う。絶対そっちの方がいいのにと思うのに。人によって思うことが違うということを覚えておくのは難しいから、何かそうしない理由があるのだろうと思ってここで止まる。

次に、こうした方がいいを説明するのは面倒だ。もしかするとみんな、何か理由があってこうしているんだろうと思ってそうしないだけで、こうした方がいいという思いは一致しているかもしれない。こういうときにデータはいい。自分の意見を主張することなくデータが事実を示してくれる。

そうして、徹底するにはやる気がいる、もしくはそうすると決めてしまう必要があるのだという考えに至った。こうした方がいいけど、まだ元気だしと思っていると、健康のための行動もされない。やっているうちにそのことに夢中になって、そのこと以外のことを考えなくなってという状況は幸せだよなと思う。上が決まっているからそれをブレイクダウンしていくだけで、徹底が起こる。自分を夢中なり徹底なりに駆り立てるために、すごいと思う人に囲まれておくとかできることはあるのだろうけど、今辿り着いたのは、そういうのはいいよなってところまでだ。大学院生がコーヒーを淹れてピアノを弾く生活ができればそれで幸せだと思っていたけど、同期に会ったときに話せる話を持っていたいと言った。分かるなあと思う。人生は単純か複雑か、もしくはそれは自分で選べるのか、方向性は決まっていて深さがあるのか、雪に浮かれながらそういうことを考えている。