甘い蜜とかその人を覆う膜とか

7月に一番見られたツイートはこれだった。

 

永田カビの『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』を読んだ。世界各国で翻訳されている。印象に残ったのはみんなが生きていられるのは私の知らない甘い蜜を舐めているからというもの。甘い蜜ってなんだろう。

 

作者にとっては「発信して人に届く事、人に認めてもらう事」が甘い蜜だった。私は益田ミリが言っていた、愛されて育つとできるというその人を覆う膜に似ていると思った。

 

自立支援を行う社会福祉法人の所長にお話を聞いたことがある。支援したくならないような人ほど支援しなければならないのだと言っていた。私は手の届く範囲の人と接するより制度を変えることに興味がある。事件が起こるとその人がその事件を起こすに至った環境ついて考える。だけど問題が愛着障害にあるときは難しいなと思う。子どものことを地域で見ればいいの。でもどうやって。

 

私はいろんなことをNational Geographicが解決すると思っている。ナショジオでなくてもいいのだけど、何かをすごいと思っているとき、これを見てみたとか、ここに行ってみたいとか、この人と話してみたいとか思っているとき、これが好きだと思うとき、その世界にいる自分のことも肯定できる気がするからだ。そんなものを一人の人に提供できたらいいよね。

 

 

妹の夫が私の大学生の従姉妹に、深い関係の友達を作れとアドバイスしていた。私は作ろうと思って作るものではないのではと思った。ではなんて言おう。これどうかなと思ったことはやれかな。でも私の言葉では届かない。なら岡本太郎の「迷ったら危険な道を選べ」などの言葉に出会って欲しいから、本を読めかな。でも私が本を読むのも絵を見るのも父の影響だもんな。いろんな失敗をしろはどうだろう。たくさんやれと一緒だけど、これならやってみて失敗しても、よし失敗したと思えていい。でもなあ。そんなことならとにかく知り合い、友達を作れでもいいかもしれない。どっちなのという疑問が残っていい。私はその中から深い関係の友達も残るときは残ると思うし、残らないなら残らないで全然いいだろと思う。本当の思いはいっぱいやって欲しいだからそれでいいんだ。少し話が逸れたけど、育ってきた環境が違うと、前提が違うと思った話でした。

 

 

ちなみに同作者の『現実逃避してたらボロボロになった話』も良い。

 

 

それから7月にはデータって何だと私は言っていたが、データとは何でもないということが分かった。仮説検証の一部でしかないので、データが大きい顔をしていても、困惑するべからず。それをどう読むかが大事なのだ。こちらが意味づけをするまでは、データはただの文字や数字の羅列だ。